2022年4月13日水曜日

ウクライナ難民受け入れと入管問題

 他国からの侵略を受け、海外に亡命をはかる人々へ、入国の門戸を大きく開くことは、人道上、当然のことだ。日本が諸外国にならって、それを積極的に行うことに、もちろん、異議があるはずがない。しかし、非常時ゆえに忘れられがちなのが、平時のその国の立ち居振る舞い方である。

日本の出入国管理行政(入管)は、極めて閉鎖的かつ排他的で、母国で宗教的、政治的弾圧を受けている、あるいはその疑いや可能性がある人たち(あるいは、その他の生活上の問題をかかえる人たち)に対しても、その対応は冷酷かつ苛烈であった。名古屋の入管収容施設内で命を奪われたスリランカ出身のウィシュマさんの例を引くまでもなく、日本の入管収容施設における犠牲者(収容中の死亡者)の数は、過去20年間で12人と、異常な値を示している。政府は他国の“収容所”を問題視する一方で、日本にも同様の収容所を間違いなく存在させてきたのだ。

ウクライナ難民への同情とはうらはらに、アジアやアフリカなどからの難民申請者や滞日希望者に対して、冷酷非情にふるまう態度の落差には愕然とする。やれ、SDGsだの、やれコンプライアンスだのと、環境重視や人権尊重が叫ばれる今日この頃ではあるが、日本人の心情の根底に流れる人種差別的な感情が、こうした落差を生み出してはいないか。

ウクライナ難民受け入れには、もちろん賛成だが、日本政府および日本人が、その他の難民申請者等に対しても公平な態度をとることを、強く期待してやまない。

2022年4月6日水曜日

抵抗の文学 ヴェルコール「海の沈黙」を読む

凄惨な戦場の真実が、次々に明るみに出て、心乱れるばかりですが、少し視点を変えて、文学から侵略や占領にアプローチしてみます。

ひとつの文学作品が、世界文学へと昇華するゆえんは、その普遍性や予言性の故でしょう。

 ヴェルコールの「海の沈黙」は、ナチスドイツ占領下のフランスで、1941年に著された短編小説です。いま、このとき、40年ぶりにこの小説を読んで、その時代を越えたメッセージに胸を打たれました。

 あるフランスの村に、片足を引きずる、若くて背の高いドイツ軍の将校がやってきます。彼は、とある民家の2階を下宿先に選び、そこに駐屯します。民家には老人とその若い姪がふたりで暮らしていますが、フランスを愛し、音楽家でもあるナイーブな青年将校の独白に対して、徹底した沈黙を守ります。将校の独白と、それに対する沈黙の応答は半年にも及びますが、物語の結末までの間に、老人と姪は、それぞれ、ただ一言ずつしか、将校に対して言葉を発しません。

将校の足をひきずる音が、彼の接近をふたりに知らせます。そして、扉へのノックを合図に、将校はふたりの暮らす部屋をたびたび訪れます。

 若い音楽家の将校は、その芸術家的な繊細さから、フランスへの思いや、独仏の統合への夢を、問わず語りに訥々と語り続けます。民家のふたりの沈黙は、必ずしも冷淡なものではなく、沈黙を守りながらも、ひとりの人間として若い将校を認め、密かに心を寄せていきます…。

 この物語から読み取れるのは、たとえ、善意や理想を持ち合わせた者であっても、侵略者は、侵略を受けた者の心を真に解きほぐすことはできない、ということです。

 ましてや、むき出しの暴力によって、人々の心を征服することなど、できようはずがありません。


2022年4月3日日曜日

原発占拠~新たな原子力災害~

 毎日新聞は、43日付け朝刊で、「ロシア兵 多数被ばくか」という、ウクライナの通信社の配信記事に基づく、ロシアのチェルノブイリ撤退の背景分析の記事を載せています。https://mainichi.jp/articles/20220402/k00/00m/030/107000c

チェルノブイリ原発敷地内で塹壕を掘ったりして、土中の放射性物質を飛散させ、それを吸い込んだ兵士に健康被害が出ている、という内容です。戦争の混乱が続く中で、相変わらず真偽不詳の記事ではありますが、汚染地域を防護措置や安全対策なしに掘り返したりすれば、環境や人間の健康に影響が出るのは当然です。

この記事から読み取れることは、無謀な作戦に駆り出されたロシア軍兵士たちのなかでの不安の広がりです。このことが、ロシア軍のチェルノブイリ撤退の重要な要因のひとつであることはきっと間違いないでしょう。IAEAがチェルノブイリを査察したときに何を語るか、注目しましょう。

戦争を止められず、祈ることしかできない日々ですが、せめて、ウクライナの戦後復興にできることを考え続けたいと思います。戦争の標的にされた原発や核施設について考えることも、そのひとつです。