他国からの侵略を受け、海外に亡命をはかる人々へ、入国の門戸を大きく開くことは、人道上、当然のことだ。日本が諸外国にならって、それを積極的に行うことに、もちろん、異議があるはずがない。しかし、非常時ゆえに忘れられがちなのが、平時のその国の立ち居振る舞い方である。
日本の出入国管理行政(入管)は、極めて閉鎖的かつ排他的で、母国で宗教的、政治的弾圧を受けている、あるいはその疑いや可能性がある人たち(あるいは、その他の生活上の問題をかかえる人たち)に対しても、その対応は冷酷かつ苛烈であった。名古屋の入管収容施設内で命を奪われたスリランカ出身のウィシュマさんの例を引くまでもなく、日本の入管収容施設における犠牲者(収容中の死亡者)の数は、過去20年間で12人と、異常な値を示している。政府は他国の“収容所”を問題視する一方で、日本にも同様の収容所を間違いなく存在させてきたのだ。
ウクライナ難民への同情とはうらはらに、アジアやアフリカなどからの難民申請者や滞日希望者に対して、冷酷非情にふるまう態度の落差には愕然とする。やれ、SDGsだの、やれコンプライアンスだのと、環境重視や人権尊重が叫ばれる今日この頃ではあるが、日本人の心情の根底に流れる人種差別的な感情が、こうした落差を生み出してはいないか。
ウクライナ難民受け入れには、もちろん賛成だが、日本政府および日本人が、その他の難民申請者等に対しても公平な態度をとることを、強く期待してやまない。